サラリーマン西野の「北北西に進路を取れ!」 〜地図サイト MovingNorth.com
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サラリーマン西野の北北西に進路を取れ!


みなさんこんにちは!東京でしがないサラリーマンをやっている西野と申します。m__m
みなさんは地図を見たことがありますか? って、ない人はいないですよね(^▽^;)
普段はじっくり地図を見ないひとも、暇なときによーくみてみると、たくさん面白い発見がありますよ〜!≧(´▽`)≦

旅のときには欠かせない地図!しかし、なにげなく普段住んでるところとか、行ったことがあるところを眺めることで、意外な発見があったり、地図を読む「カン」が養われるのですd(-_☆)
このサイトでは、そうした地図の魅力をたくさん伝えちゃいます(*・ェ・*)ノ
ゆっくりですけどドンドン更新していくので、みんなみてくださいね〜〜ヨロシク(゚0゚)(。_。)ペコッ


地図(ちず)とは、地球などの地表、あるいは架空の世界の全部または特定の一部分を縮小表現したものです。 書店等で一般的に入手可能な地形図は、東西南北や緯度、経度が指し示されて、等高線による土地の高低差、海、湖、河川のような水域、行政区画、道路や建物の位置などの多くの情報が網羅されています。地図では、記入される情報は全て地図記号で表され、地図の種類または国ごとに統一され決められています。ただし地形図以外のもの(道路地図やガイドマップなど)においてはこのような規格には沿っていないものが多い。さらに鉄道路線図のように接続関係のみを重視し幾何学的正確性を無視したものもあります。 日本では、国土地理院により測量がされて作られています。従来使われてきた測地系(座標を決める基礎情報)が、GPSなどで使われるものと大きく異なっていたため、測量法の改正により2002年4月1日に「日本測地系」を「世界測地系」に変更しました。その前後の緯度、経度は座標変換が必要になります。 また日本では地図は著作権法10条1項6号で図形の著作物として例示されており、著作権法で保護されています。 現在では、地図のデジタル化によって、地図上に多くの情報をあわせて持つことができるようになっています。


世界地図♪
世界地図

地図 | 伊能 忠敬
延享2年(1745年)1月11日、神保貞恒の次男として上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。幼名は三治郎。6才の時母が亡くなり婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・横芝光町小堤)の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る。その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、三治郎が10才の時に父の元に引き取られる。 宝暦12年(1762年)、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている。また、かなりの財産を築いた。 寛政6年(1794年)50歳の時に隠居し、家督を長男景敬に譲ったのち、江戸に出る。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。 寛政12年(1800年)、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。幕府は、伊能忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされる。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。 こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。完成したのは忠敬没後の文政4年(1821年)であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。 死後の文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された(シーボルト事件)。